【全4回コラム③】大昔の職人が命がけで繋いだ「神様の魔法」の正体

前回は、ボトルのなかで起きている微生物たちの過酷なサバイバルレースについてお話ししました。

「素材の味が移るんじゃない?」「サバイバルを勝ち残った菌の種類や、その下の『菌株』の違いがパンの個性を決めるんだ」という、現代の製パン科学のお話でしたね。

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今回は、時間を一気に数千年前まで巻き戻してみましょう。

現代の私たちは、カタログを選ぶように「今回はこの菌で、この温度で」とコントロールできますが、大昔の人はどうだったのでしょうか?

顕微鏡もなく、「酵母」という言葉すら存在しなかった大昔。彼らは、「正体不明の、目に見えない神聖な力」とどうやって付き合い、パンを焼いていたのでしょうか?

そこには、現代の私たちが自家製酵母を育てるうえで、最も大切な本質が隠されていました。

1. すべては「放置されたお粥」の奇跡から

今から数千年前の古代エジプトやそれ以前の大昔。人類が最初に食べていたパンは、今のようなふっくらした形ではありませんでした。当時はまだ、小麦粉を上手にこねて「グルテンの生地の塊」にする技術がなかったからです。

彼らは、粗く砕いた穀物を水でじっくり煮た、ドロドロの「お粥(かゆ)」を主食にしていました。そのお粥を、熱く焼いた石の上に薄く広げて、お煎餅のようにカリカリに焼いたものが、人類最初のパン(無発酵パン)です。

そんなある日、ある家庭で「食べ残したお粥」がバケツの中に数日間、そのまま放置されてしまうという、小さな事件が起きました。

よく読み物で「こねたパン生地を焼き忘れて放置したら、翌朝ぷっくり膨らんでいた」というお話がありますが、あれは作り話です。科学的に見ると、水分の少ない硬い生地を放置しても、酵母が増える前にカビが生えるか腐るのがオチだからです。本当の奇跡は、水分がたっぷりで温かい「お粥」の中でしか起き得ません。

バケツに放置されたお粥のなかへ、空気中や穀物の皮にいた目に見えない野生の菌たちが、次から次へと飛び込んでいきました。 まずは「乳酸菌」たちが大暴れしてお粥の環境を酸っぱくし、他の悪い雑菌をシャットアウトします。安全になったそのお粥のなかで、次に「野生の酵母」たちが大増殖を始めました。

数日後、人が気づいたときには、お粥はドロドロのまま、底から「シュワシュワ、ブクブク」と不思議な泡を立てて、見たこともない姿に変わっていたのです。(まさに、日本の「どぶろく」のような状態ですね)。

2. 「ビールのようなお粥」に粉を混ぜてみたら……

当時の人は、これが微生物の仕業だとは夢にも思いません。恐る恐るそのシュワシュワのお粥を舐めてみると、なんだか少しピリッとして、お酒(ビール)のような良い香りがします。

「これは神様がくれた聖なる飲み物かもしれない」

そう思った誰かが、あるひらめきを得ました。 「このシュワシュワ泡立っているお粥に、もう一度、乾いた穀物の粉を混ぜて焼いてみたらどうなるだろう?」

ドロドロのお粥のままでは熱を加えても蒸発するだけですが、粉を足して「ぽってりとしたペースト状」にしてから熱い石の上で焼いてみたのです。

すると、信じられないことが起きました。 いつもなら硬く焼き上がるはずのパンが、火が通るにつれて、中からぷっくりと信じられないほどふんわり膨らんでいったのです。

食べてみると、今までにないくらい柔らかく、口溶けが良く、そしてえも言われぬ香ばしい香りが広がりました。これこそが、人類が初めて出会った「発酵パン」の本当の誕生の瞬間です。そして実は、「ビールの誕生」とまったく同時に起きた奇跡でした。

当時のエジプト人たちは、この不思議な現象を「神様が生地に命を吹き込んでくれた魔法」だと信じ、このシュワシュワのエキスを大切に守るようになります。

3. 誰も正体を知らないのに「種継ぎ」に気づいた、もったいないの知恵

しかし、彼らは毎日毎日、あの「お粥を何日も放置して、神様が泡をくれるのを待つ」という気の長い作業を繰り返していたわけではありません。ある時、彼らはものすごく立派な発見をします。それが、今でいう「種継ぎ(サワードゥ / ルヴァン)」の原点です。

なぜ、菌の存在すら知らない彼らが、「昨日の生地を混ぜると、今日も膨らむ」というルールに気づけたのでしょうか?そこには、古代の人たちの「道具を使い回す生活の知恵」と「もったいない精神」がありました。

当時、エジプトのパン職人たちは、円錐形の大きな粘土の焼き型にドロドロのパン生地を流し込んで、火の中に直接突っ込んでパンを焼いていました。この焼き型、現代のように毎回きれいに洗う洗剤なんてありませんから、内側には「昨日焼いたときの、生焼けの古い生地」がこびりついたまま、次の日もそのまま使い回されていたのです。

すると、あることに気づきます。 「新品の焼き型で焼くよりも、毎日使っている古い焼き型で焼いたパンのほうが、なぜかいつも早く、ふっくらと美味しく焼き上がるぞ……?」

さらに、当時のエジプトではパンとビールは隣り合わせ、というか同じ場所で造られていました。ビールを造るために穀物をお粥状にして発酵させたあとの「どろどろの残りかす」を捨てるのがもったいなくて、次の日のパンをこねる水に混ぜてみた職人もいました。すると、そのパンもまた、見事に大爆発するように膨らんだのです。

こうした泥臭い日常のなかで、彼らは経験的にひとつの真理を導き出します。

「新しく一から作るより、すでに魔法(発酵)がかかっている『古いもの』を少しだけ混ぜたほうが、失敗せずに、一瞬で次の魔法がかかる!」

この「もったいない」から始まった使い回しの知恵こそが、何千年も続く「種継ぎ」の歴史の始まりでした。 毎日毎日、何年も、何世代も、そのお店の道具やバケツのなかに住み着いた菌を引き継いでいく。結果として、その土地の気候やお店の環境に馴染んだ「その店独自のタフな野生株」が、何百年もかけて自然に選抜され、守られていくことになりました。

4. 現代とはまったく違う、大昔のビール酵母の「正体」

ここで、パン好きの皆さんなら一度は聞いたことがあるかもしれない、有名な歴史の話があります。 「中世のヨーロッパでは、パン職人がビール酵母(ビールの醸造中に出る泡)をもらい受けてパンを膨らませていた」というお話です。

「へえ、大昔からビールイーストを使ってパンを焼いていたんだ!」と思いますよね。 でも、ここで今日の最大のテーマです。

「当時のビール酵母と、現代のビール酵母(イースト)は、まったくの別物だった」

現代のビール酵母やパン用イーストは、科学の力で「選び抜かれた1種類のエリート菌(単一の菌株)」だけを100%純粋に培養したものです。 しかし、大昔にはそんな技術はありません。当時の「ビールの泡」の中身は、今では考えられないほど「いろんな菌がごちゃまぜになった野生のミックス状態」でした。

当時のビールは、現代のように黄金色に透き通った爽やかな飲み物ではなく、「酸味が強くて、濁っていて、ドロドロした液体」だったことが分かっています。 なぜなら、発酵バケツの中には、パンを膨らませる王道酵母(Saccharomyces cerevisiae)だけでなく、野生の乳酸菌や酢酸菌、そして生のフルーツにたくさんいるようなスタミナ不足の野生酵母たち(Hanseniaspora など)が、みんなで大乱闘をしながら同居していたからです。

つまり、当時の職人がやっていたことは、現代のイーストを投入するような作業ではなく、「乳酸菌も野生酵母もたっぷり入った、超元気なルヴァンの液体版を混ぜる」という感覚だったのです。だからこそ、当時のパンはふっくら膨らみつつも、独特の酸味と深いコクを持っていました。

人類が顕微鏡を使って「1種類の優秀な株だけを閉じ込める(純粋培養)」ことに成功したのは、人間の長い歴史のなかでも、ほんの150年ほど前のことに過ぎません。

おわり: 自然を享受し、サイエンスでクリエイトする時代へ

ここまで、古代のロマンを交えて物語仕立てでお伝えしましたが、これらは最新の考古学の発見や微生物学の観点からも、極めて事実に近いと考えられています。

大昔のパン職人たちは、菌の名前(学術名)こそ知りませんでしたが、

  • 「昨日より部屋が寒いから、魔法の効きが遅いな(温度管理)」
  • 「生地がちょっと酸っぱくなってきたから、新しく粉を足そう(種継ぎ・pH管理)」

というように、日々の経験のなかで「環境という調整」を必死に操作して、見えない菌たちと対話していました。

現代の私たちが、自宅でレーズンや果物をボトルに入れて自家製酵母を起こすということは、ある意味で、あの顕微鏡も純粋培養もなかった大昔の「いろんな菌が混ざり合って、助け合ったり淘汰し合ったりしていた混沌の世界」を、自分の手で再現しているということでもあります。

だからこそ、市販のイーストのように100%思い通りにはいかないけれど、大昔の人たちが味わっていたような、あの複雑で、奥深くて、なんとも言えないパンの風味に出会うことができるのです。

そして、私たちはただ「大昔に逆戻り」するわけではありません。

現代の私たちは、先人たちが掛け継ぎ、焼き続けたパンの歴史から、科学が解明してくれた「正しい知識」という最強の武器を手に入れています。 ただザックリと「天然酵母ってナチュラルで素敵!」と受け止めるのではなく、

「この素材(高糖度)だから、糖分に強いあの王道酵母が呼べるんだ」

「この温度(高めの温度)だから、乳酸菌が元気に動いて酸度が上がるんだ」 と、知識を使って、家庭にいながらにして「パン酵母を自分の手で自由に設計(デザイン)」していくことができる。そんな贅沢なコントロールができる時代に、私たちは生きているのです。

自然の生命力をそのまま五感で享受しながら、科学の力でロジカルにクリエイトする。 これを楽しめる家庭製パンは、まさに「自宅のキッチンでできる最高のサイエンスの場」です。家庭製パンって素敵だなと思います。

ただの「なんとなくのコツや勘」を卒業して、歴史と科学の下層にある真実を見つめながら、小さな主役たちの性格に合わせたパン作りを、みんなで一緒に楽しんでいきましょう!

みなさんのキッチンにあるそのボトルも、古代エジプトのバケツと、まったく同じ地続きの命が脈動していますよ。